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「京都の医学 その倫理観]
 〜慈仁の系譜とその倫理観〜


京都新聞社論説委員 川端 眞一 先生

『京の医学』について
 1980年代に京都大学にある「京都・大学記者クラブ」に所属して、大学問題を担当する。医学をはじめサイエンスに関する取材が多かった。取材を通して『京大医学部』や『福井謙一博士の死』などの執筆も行った。
 ・京都府立医科大学が京都で一番早く西洋医学を取り入れた大学であるが、あまり知られていない。
 ・京都という場所が、歴史の中で医学の中枢的役割をになってきた地域であることも知られていない。
そこで医学の歴史散策という形で、平安京から脈々と続く医学教育や、京都に残る史跡を紹介していきたいと考えた。
世界の医学について
インド医学(紀元前五世紀ごろ)・・・ジーヴァカ尊者(耆婆)は、釈迦の弟子で、木の棒を診察に使用。「透視棒」で身体を透かしてみて、身体の悪い部分を発見したという逸話をもつ。
 インド医学の起源・・・バラモン教の聖典『ヴェーダ』の『リグ・ヴェーダ』に病気に関するマントラ。『アーユル・ヴェーダ』(生命の書)と、経験医学が加わって成立。
『スシュルタ・サンヒター』や『チャラカ・サンヒター』が、インド2大古典医学書である。
 インドは、仏教的考え方(慈悲の心)から、世界で最初に病院が作られた地域でもある。
叉、ヨーロッパの病院は、中世・十字軍の将兵がハンセン病となり治療したことから、始まっている。
ギリシャ医学(紀元前5世紀ごろ)・・・アスクピオスやヒポクラテスが、医師組合(メンバーをアスクレピアデンと称す)を組織していた。後世に残る『ヒポクラテス全集』や『ヒポクラテスの誓詞』は、ヘレニズム時代・ムセイオン(アケドニアにある附属図書館)の王の命令によって編纂。『ヒポクラテスの誓詞』は現代でも医学校での卒業の誓いで使われている。
 ピタゴラス・エンペドクレス(防疫排水工事)・プラトン(医師ではない)・アリストテレス達が、アスクレピアデンとして有名である。
ヒポクラテスの誓詞 (現代の医学校での卒業の誓い)
1、 医の実践を許された私は、全生涯を人道に捧げる。
1、 恩師に尊敬と感謝を捧げる。
1、 良心と威厳をもって医を実践する。
1、 患者の健康と生命を第一とする。
1、 患者の秘密を厳守する。
1、 偉業の名誉と尊い伝統を保持する。
1、 同僚は兄弟とみなし、人種、宗教、国籍、社会的地位の如何によって、患者を差別しない。
1、 人間の席名を受胎のはじめより至上のものとして尊ぶ。
1、 いかなる強圧にあうとも人道に反した目的のために我が知識を悪用しない。

ローマ医学・・・ローマはギリシャに比べて、まだまだ田舎であり、アスクレピアテスやガレノスが、ギリシャから医学に関する知識を吸収し移植した。しかし、半熟期に入って、医師達の腐敗も進んでいく。
ガレノスは「追剥と医者には区別がない。追剥は山野で、医者はローマの真ん中で悪事を働くだけの違いだ。」という言葉を残している。
中国医学(紀元前三世紀ごろ)・・・魔法医学から経験医学へ変わってきた古代中国では、「陰陽五行説」が思想の骨格となった。
五行=木火土金水⇒万物の成り立ちのこと 陰は陽に転じ、五行も流転変化する。孔子の生きた春秋時代に体系化される。『黄帝内経』や『傷寒論』が現存している。
 古代中国の名医は、扁鵲(ヘンジャク)、華陀(カダ)が有名である。
華陀は、麻酔薬の麻沸湯を用い治療を行っていた。しかし、後世にその処方が残っておらず、江戸時代・華岡青洲が苦労の末、チョウセインアサガオとトリカブトを主成分にした麻沸湯を発明し、全身麻酔による乳ガン手術に成功している。
日本の医学の始まり
日本の医薬神として、大国主命や少彦名命が上げられる。
仏教医学・・・仏教教義を極めるために、「五明」があるが、その中の医方明が、医学・薬学・看護学にあたる。僧医と看病僧が、朝廷に出入りしていた。
古墳時代には、新羅から金武、高麗から徳来が来日帰化し、鑑真和上も仏教教義の一部として、唐の最新式医術・薬方を伝えている。
 日本の医事制度は、大宝律令・医疾令の中にある典薬寮(くすりのつかさ)が最初である。
和気清麻呂の曾孫・時雨や、坂上田村麻呂を輩出した坂上家(後に丹波家)康頼らの子孫が、典薬頭を交互に世襲している。
 799 ?  日本最古の医薬書は和気広世による『薬経太素』
        『日本伝統医学裏史』金澤信二郎
 808 『大同類聚方』 
 974 丹波康頼 『医心方』 現存している書物
        『日本医史学雑誌』
丹波家は、数々の医学書を宮中に献上している。
医心方・全三十巻の構成
第一巻 総論 治療法・薬物調製・薬名の和漢対照語
第二巻 鍼灸
第三巻〜第十四巻 内科 風病諸症・毛髪と頭部および顔面疾患・喉疾患・胸腹内臓疾患・陰部疾患と虫病・四肢諸病・呼吸器および胃病・腫瘍および肝耳目口歯および風病諸症・毛髪と頭部咽臓疾患・下痢・大小便・結核性疾患・急病と熱病
第十五巻〜第十八巻 外科
第十九巻 製楝と製剤法
第二十巻 石薬
第二十一巻 婦人科
第二十二巻〜第二十四巻 産科
第二十五巻 小児科
第二十六巻 延年法
第二十七巻 養生
第二十八巻 房内法 東洋医学史研究会  (参考としてリンク)
第二十九巻〜第三十巻 食養法
この書物を巡って江戸時代に、丹波家と和気家が争いをおこす。

京都に根付いた医学
祇園祭の起源・・・疫病退散を願う御霊会である。占出山鉾では、安産を願うお札を配っている。
安芸守定・・・足利義満誕生の際の功績により、尚薬に取り立てられ、女科医を確立した。
曲直瀬道三・・・日本医学中興の祖といわれ、足利学校へ留学するが、田代三喜(明に渡った留学僧で、元の医学を学んだ)から教えをこうた。京都へ帰郷後、わが国最初の民間医療学校「啓迪院」を設立した。「門下法則」を掲げ、医師としての心得を詠った。
 後日談として、信長の信任を得た宣教師ジョイス・フロイスが『日本史』の中で、道三はクリスチャンの洗礼を受けたと記している。
古医方・・・孔孟の教えに返ろうと、後漢時代の『傷寒論』を下敷きとした医学も盛んになる。
後藤艮山、永田徳本や古議堂の伊藤仁斎
中世の医学導入
紅毛流・・・ポルトガル人が伝えた外科が中心の医学。
澤田忠庵(クリストファー・フェレイラ)、栗崎道喜、シェンブルガー・カスパル、嵐山甫安、桂川甫筑(森嶋小吉)、4代目甫周(『解体新書』翻訳者の一人、『北搓聞略』)
伊良子外科・・・伊良子道牛が長崎で習得した紅毛流外科は、京都に根付いて、幕末まで伊良子家や門下生によって守られてきた。
学術的人体解剖の年表
1754 山脇東洋や原松庵・伊藤友信・小杉玄適・浅沼佐盈が、京都・六角獄舎で刑死体の解剖実見  『蔵志』
1771 杉田玄白らが、江戸・小塚原で腑分けを行う  『解体新書』
吉益東洞・・・「万病一毒説」で治療を行っていたが、山脇東洋との出会いにより、その技術が開花される。中国医学の日本的脱皮は、曲直瀬道三に始まり吉益東洞で完成したといわれている。
賀川玄悦・・・江戸中期に正常胎位を発見し、鉄鉤を利用した回生術をあみだした。日本で真の産科術を確立し、『参論』を記している。
小石元俊・・・江戸の蘭学を関西に伝えた。蘭学だけに固執したわけではなく、漢方の良さを蘭医学に融合させ、治療に応用した。
華岡青洲・・・華陀のところでも述べたが、麻沸湯の主成分が漫陀羅華(和名チョウセンアサガオ)であると考え実験を繰り返した。完成した麻酔薬を通仙薬と名づけ、1804年に全身麻酔による乳がん手術に成功。アメリカの歯科医ウイリアム・モルトンがエーテルによる全身麻酔より40年も早いの偉業である。
新宮凉庭・・・学問所「順正書院」を開設。解剖・生理・病理・外科・内科・博物・化学・薬性の学科があり、自身で翻訳した専門書を教材に使用した。
幕末以後の医学
 江戸時代、西洋の知識を得ることができるのは、長崎にあるオランダ商館であった。オランダ商館医官・シーボルトが有名で、蘭学・博物学などを指導していた。
日本最初の牛痘法成功(1849年)・・・日野鼎哉により京都で接種される。蘭館医・オットーモーニケの協力により、佐賀藩医・楢林栄建が除痘館を開設。
 蘭方医・明石博高(ひろあきら)は、槇村正直・山本覚馬らの後ろ盾を得て、舎密局などの産業施設や、種痘館・療病館(青蓮院・粟田口療病院)・癲狂館(南禅寺方丈)などの衛生病院施設を開設した。
 1867年、医官ウイリアム・ウイリスが相国寺養源院で負傷者を治療。官軍患者収容を目的とする京都御親兵病院なども開設されるが、どちらも野戦病院であった。
京都を中心とした医学校に関する年表
1872年 明治政府のドイツ医学の採用方針により、ドイツ人医師ヨンケル・ファン・ランゲックが、
京都府立医科大の前進となる、診療と医学教育を目的とした療病院(粟田口青蓮院)を開設。
1874年 療病院で開業医の入学志願を許可する。(医制発令、東京・京都・大阪で施行)
1875年 産婆規則発布、文部省・医術開業試験実施を三府に布達する。以後、漢方医激減。
1881年 療病院、医学校が独立し、京都府医学校となる。翌年、甲種医学校と認定される。
1886年 京都府医学校職員と市中開業医が京都医学創設。
同志社が京都看護婦学校と同志社病院創設。
1887年 全国医師総数40343人となる。
1889年 京都府立医学校附属産婆教習所開設。
1890年 京都医会設立、会長は半井澄。
1897年 島津製作所がX線装置完成。
1899年 京都帝国大学医科大学開設。
1903年 京都府立医学専門学校認可。
1906年 医師法発布、歯科医師法発布。
京都に残る医学の足跡
右京区 神護寺 和気清麻呂の墓所、和気家の祖  上京区  十念寺 曲直瀬道三の墓所
清涼寺 阿弥陀寺 皆川淇園の墓所
仁和寺 『医心方』などの古書 相国寺 薩摩藩病院
二尊院 伊藤仁斎・東涯角倉吉田家
香川修庵・南洋、
福井榕亭・棣園の墓所
御所 施薬院
嵐山〜桂川 紅毛流外科 嵐山甫安・桂川甫筑 京都府立医大学 療病院
北区 等持院 賀川家の四分家 同志社大学 同志社病院、
京都看護婦学校
蓮台寺 後藤艮山・安芸守定の墓所 古義堂跡 伊藤仁斎
大徳寺 小石元俊・元瑞、曲直瀬道三、
半井家の墓所
堀木之舎跡 並河天民
浄福寺 名古屋玄医の墓所
本隆寺 黒川道祐の墓所
祐正寺 百々俊徳の墓所



 中京区  京都府医師会館 京都種痘術
創始五十年記念碑
 左京区  大雲寺 精神病患者の民間保養所
 東山区 青蓮院 粟田口癲狂院 知恩寺 柚木太淳の墓所
建仁寺 栄西禅師の茶碑 真如堂 向井元升の墓所
高台寺 谷口道悦、谷暘卿、
京都江馬家の墓所
迎称寺 松原一閑斎・稲生若水の墓所
清水寺 明石博高、日野鼎哉、
和田東郭、三宅家の墓所
金戒光明寺 橘南谿、有馬玄哲、藤林普山、
大村達斎、笠原光興の墓所
東福寺 吉益東洞の墓所 大恩寺 海上随の墓所
 下京区 本圀寺 広瀬元恭の墓所 禅林寺 小森桃塢の墓所
正行院 水原三折の墓所
探頷器を考案し
『産科探頷図訣』を記す
南禅寺 宇津木昆台の墓所、
新宮凉庭・順正書院、
府立京都癲狂院
玉樹寺 賀川流産科、
賀川玄悦・玄迪の墓所
京都大学医学部
 亀岡市 医王谷 丹波家の祖 伏見区 真宗院 山脇家の墓所
宝塔寺 伊良子家の墓所
御香宮神社 『平次郎臓図』
(杉立義一著 『京の医史跡探訪』より)
正行院 猿寺 (京都駅東側 塩小路下ル) 玉樹寺 (大宮松原下ル)
正面

西側にある地蔵堂

輸形地蔵
   正面

賀川家の墓石

日本近代産科学のみなもと、石碑