| 「野球を通しての教育」 平安高校硬式野球部監督 原田 英彦 氏 |
| 私は、日本新薬で平成3年まで現役でプレーをさせていただきまして、平成4年の春から平成5年の春までの1年間、MRとして大阪営業所に配属され、東住吉区、平野区、生野区の3区を主に担当しておりました。それまで野球中心の生活で、この営業生活の1年間は自分にとってすごくプラスになり、また今の仕事にも大きく役立っていると自分なりに思います。 本日は「野球を通しての教育」という題の内容でお話いたします。 |
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| <平安高校硬式野球部の組織について> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 本来ならば教員免許を取っている方がほとんどの野球部の監督という形になっておりますけれども、私の職業は硬式野球部監督という監督職でございます。職業監督ということになります。ですから、よく練習試合とか公式戦に行きますと、回りの方から「先生」と言われるのですけれども、それが一番困りまして、「監督」と呼ばれる方がいいと思います。ですから、この様に人の前で話をするというのは非常に苦手でして、聞きづらい点もあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。 平安高校硬式野球部の現在のスタッフは、私が監督、それとコーチが2名おります。そして、教職を取っております硬式野球部部長が1名、副部長が2名という組織になっております。それと、コンディションニングコーチ、主に体という部分の面倒をみていただいておりますコンディショニングコーチ、それとメンタルケアをしていただきますメンタルカウンセリングコーチがおります。 ですから、技術に関しては私たち、体に対してはコンディショニングコーチ、選手のメンタルな部分に関してはメンタルカウンセリングコーチと、この3者が1人に対しての指導という形をとっております。それと、スポーツネットワークというのがございまして、これは、けが・障害のケアなのですけれども、これは主に病院の先生方に最終的には面倒をみていただいております。たとえば捻挫、腰痛、肘・肩・足の障害など、その中でも関節に関してはこの先生方、腰に関してはこの先生方という形で京都では一番のスポーツネットワークを築いていると自負しております。 |
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| <10年目の快挙> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 硬式野球は、社会人であれば最高の舞台というのは東京ドームで行われます都市対抗野球です。高校であれば春と夏の甲子園それと最後に国民体育大会です。国体というのが夏の甲子園でベスト8以上、推薦はあと2校という形で、ベスト8以下に関してはまず選ばれないのが国民体育大会。それともう一つは神宮大会というのがありまして、これは新チームが秋に発足されまして、その新チームが近畿大会で優勝しますと、各地区の代表が明治神宮球場に集まっての大会です。 この4つが高校では大きな大会になります。 平成15年のチームはこの4つの大会を制してくれたというか、出場したということが、私、10年目にとって初めての快挙でした。ですから、平成15年のチームは私が目標としていたグランドスラムを達成してくれたという意味もこめて「グランドスラム」と、私が名付けたのです。グランドスラムという意味は、満塁ホームランという意味です。 じつはこの平成15年のチーム最初は「下手くそ軍団」と名前を付けたのですけれども、まことに弱かったのです。しかし、後に最強軍団になりました。 |
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| <ヤジが原動力となって> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この「下手くそ軍団」が「グランドスラム」への成長の過程、そのきっかけとその後の指導についてお話してまいります。 新チームで迎えた2002年秋の大会・・・、1年生・2年生にとってこの秋の大会というのは、翌年の春の選抜に重要な参考資料となる大会なのです。 秋の大会を勝ちまして、近畿大会に向かって、近畿大会で通常ベスト4にいけば近畿代表として翌春の選抜に選ばれる確立が高いのです。「下手くそ軍団」はまずそれに向かってスタートをしたわけなのです。 2002年秋の大会、京都大会の1回戦で西城陽高校と当たりまして、6回まで0対4で負けていました。6回が終わったところでスタンドからのヤジで「コールドゲームにしてやれ」と。あと3点を取って7点取ればコールドゲームとなりますので、「コールドゲームにしてやれ」という強烈な西城陽高校の父兄なんですけれども、ヤジが聞こえました。私も気が短いものでカッとなりまして、選手を集めて「おい、今のヤジを聞いたか。何を言われたか。いてまえー」と檄をとばしました。その次の回すぐにこのチームが4点を返しましたが、8回にまた1点を取られまして5対4で負けていたのですけれども、その裏に西村という選手の2ランホームランで逆転し結局競り勝ったというゲームでした。このゲームはエラーが4つ出ました。守備がへたくそなのと、「ヤジ」にも頭にきました、その日は試合が終わってから6時間ぶっ通しのノックをしました。 このチームの生徒は、すごく元気な気持ちを持っている、メンタルの強い子が多くいて、それがおそらくこのチームの特徴だったと思います。その中で西野・西村という旧チームから試合に出ていた生徒で、3番・4番を打っています。この子たちが非常にこのチームを引っ張っていました。そして一次予選を通過しまして、迎えた京都の準決勝で接戦で負けてしまいましたが、この年はラッキーなことに近畿大会に京都から3つ出られるという年だったもので、3位決定戦で勝ちまして、京都3位という形で近畿大会に出ました。京都3位のチームですから、絶対優勝しないといけない、優勝して初めて選抜の切符が手に入る、という気持ちで選手にも檄を飛ばしまして、近畿大会に向かったのです。
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| <大会に向けての球児コンディション管理> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 高校野球でいう春夏連続出場というのは非常に難しくて、春夏連続を目指して、過去2度失敗しているのです。失敗するというのは、やはり選抜に出ますと高校生ですから雑誌や新聞社の取材とか、もちろんテレビにも映ります。親御さんも周りの方も本人たちもスター気取りになってしまうのです。高校生の球児で天狗になってしまうのが一番怖いということですし、ファンレターも来ます。ですから、彼女もできるというパターンで夏にガタガタと崩れていく子が多いのですけれども、過去2度の失敗を踏まえまして、春以降、非常に厳しく徹底して指導をいたしました。 そして、京都の春の大会、選抜から帰ってからの春の大会です。この大会はエース抜きで優勝をしてくれまして、その夏、見事に、予定通りといえばそうなのですけれども、優勝をしてくれまして、春夏連続出場ということになりました。 そして、夏の甲子園1回戦。このチームの主将が非常にクジ運の悪い主将でして、京都の夏の予選を6回戦ったわけです。これはうちが京都の春の大会を優勝していますので、一応シード校なのですけれども、京都の夏の大会は、シード校は普通にやりますと5回戦なのです。それが1回戦から出場なのです。これは4チームぐらいしかないのですけれども、その中に入ってしまいまして、京都の夏の大会は6回戦わないといけない。その6回すべてに先攻後攻のじゃんけんに負けているわけなのです。大体、私のスタイルで勝てば後攻だということを指示するわけなんですけれども、ずっと先攻でして、決勝も負けたのですけれども、決勝は相手が先攻を取りました。ですから、うちが初めて後攻に立ったわけです。 (KBS京都 高校野球情報 参照) そういう子でして、この夏の甲子園の抽選も一番の激戦区にはまってしまいました。2年前の優勝チーム、昨年の優勝チームも一緒のゾーンに入りまして、もちろん東北のダルビッシュがいるチームも同じゾーンに入りまして、本当に超激戦区のゾーンに入ってしまいました。 1回戦が2年前の優勝チーム日大三校でしたが、8対1と圧勝しました。そして、2回戦が前年優勝チームの明徳義塾で、2対1で競り勝ちました。そして、3回戦は、ダルビッシュという投手がいる東北と当たりまして、延長11回の0対1、サヨナラ負けをしてしまいました。そして、この秋の国民体育大会に選ばれました。 この国民体育大会での成績もまた抽選で、その年の夏の甲子園で全国制覇をした常総学院と1回戦で当たり勝ちました。そして準決勝で小松島高校に負けまして、このチームの活動はこの秋の国体ですべて終わったということになりました。 終わってみれば高校野球の最高の4大会に出場してくれて、私にとって10年目で初の快挙ということになりました。 エラーの数が出場校中一番多いチームであったのが、大きな4大会に出てくれた。そのきっかけといいますか、ターニングポイントになったのは、秋の新チームでの対戦相手・西城陽の父兄のヤジです。非常にありがたかったと思っております。 |
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| <印象に残った球児> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この「下手くそ軍団」の主将。4番、センターを守っておりました西野というのがおります。今は立命館大学に在籍しているのですけれども、この選手の春の選抜の本塁打とその後の彼の野球に対する態度についてお話します。 この西野という選手は大阪から通っていまして、下宿をしておりました。非常に芯の強い子でこの子をキャプテンに任命したわけなんですけれども、非常におとなしくて、練習を一所懸命に黙々とやって引っ張るという選手でした。この選手が前の年の選抜に出た時に、この子は2年生で選抜1回戦に1番バッターで起用しまして、この選抜では4タコと言うのですけれども、4打数0安打でヒットが無くて非常に悔しい思いを持ってその次の春に向かったわけなのです。そういう彼の悔しさが生きまして、非常に打撃成績も上がりまして、この選手をずっと4番で打たせました。そして、この春の3年生の選抜1回戦で宇部鴻城と対戦し、このゲームで彼が甲子園でホームランを打ってくれました。これは勝負が決まる本塁打でした。人間的にもしっかりしていましたので皆の信頼も非常に厚い選手だったのですけれども、この選手が先ほど言いましたように春の選抜以降ガタガタと崩れてしまいました。 というのは、この春の大会以降、少しずつ少しずつ眉毛が細くなっていくのです。今のはやりだと思うのですけれども、ここ最近の生徒を見ていますと、女の子みたいに細い細い眉毛にしてしまう子が多いのですが、私はこれが非常に嫌いです。帽子も「潮来の三度笠」のようにしてかぶる、これも一つのファッションだと思うのですけれども、私は非常に嫌っていました。うちは名門という歴史があり、平安は平安のスタイルというところを貫くわけです。 非常に芯の強い、おとなしくて、練習を一所懸命にしていた彼が少しずつ少しずつ眉毛を細くしてきたわけです。おそらく、女の子ができたのだろうなと見ていました。黙って見ていたわけですが、選抜から帰ってきまして、選抜後の京都春の大会で全く打てなかったのです。対洛星高校との試合で、5回のチャンスすべてにランナーを置いて外野フライ一つ打てなかったのです。 彼を怒るのはここだなと思って、この試合が終わってから怒ったのです。このゲームは宇治の太陽ケ丘で試合がありまして、帰りにバスに乗ったのですけれども、学校まで走って帰れということを言いました。後で思ったのですが、この子は京都には全く土地勘がない大阪の子でして、しまったなと思ってバスは出たのです。どうやって帰ってくるかなと思ったのですけれども、やはり迷子になりまして、4時間掛かって帰ってきました。それから、本人と話をし、「お前の眉毛、何だそれ、しっかりやれ」と、その日はそれで帰らせたわけです。 この子と同じ中学からきて、一緒に下宿をしていたチームメイトの話によると、前年の2年生の春の選抜に打てなかった悔しさから、夜12時半・1時ぐらいまで毎日バットを振っていたのが、その回数が減ってきている、下宿に帰ってくる時間が非常に遅くなってきているとの事でした。 やっぱり確実に女の子と会っていたなということが分かりまして、その子と練習の時に話をしました。でも、彼は良い方向へは動かなかったのです。 彼はその状態のまま3年の夏の大会を迎えました。私は、彼が平安のキャプテンですから平安のキャプテンという姿を貫かせたかったものですし、4番打者を外さなかったのです。 甲子園は7月15〜16日ぐらいから夏の予選が始まります。平安は必ずその前の週に和歌山に遠征に行き、市和商と毎年練習試合を行います。この試合も、この子を4番で使っていました。彼は、第1試合の3打席目に内野フライを打ち上げたのです。その時に内野フライを打った瞬間にすぐに走らなかった。ベンチから仲間が「走れ」と言うのですけれども、走らなかった。途中で気がついて走り出したのですが、そこで私もブチッと切れてしまいまして、彼を呼びつけて、「もう、出て行け。グランドから、出ろ」と。そこの市和商のグランドはすごく広くてライトのフェンスの向こうにまだ場所がありますので、「もういいから走っておけ」ということを指示しました。その時はダブルヘッターで、昼からも試合をしたわけです。その間は、ずっと走っていました。 試合が終わりまして、その日は観光バスで和歌山に来ていましたので、みんなに「乗れ、帰るぞ」と。見ると、その子は走っているわけなのです。マネージャーが「どうしましょう」と、「ほっておけ。走らせておけばいいではないか」と私がいいました。実際にほって帰ろうと思っていました。そのときは、父兄の方が車でたくさん来られていましたので、最終的にはどうにかなるだろうと、誰かが連れて帰ってくれるだろうという考えを持っていました。そのようなわけで、バスを出してもらったのですけれども、ちょうど大型の観光バスでして、バスの前に車が止まっていまして、それがじゃまでなかなか出られなかったのです。その間に父兄が全部帰ってしまったのです。しまった、どうしようか、収拾がつかなくなったなと思いまして、マネージャーが気遣ってくれて、その子を呼んでくれたのです。 それで、バスに乗ってきました。キャプテンの席というのは、毎年、僕の後というのは決まっているのです。彼がバスに乗ってきて僕の後に座ったのです。「おい、何をバスに乗っているのだ。誰がバスに乗れと言った。走っておかんか」と怒ったのですけれども、彼は泣きじゃくったのです。「もう、俺は許さないぞ」ということで、この子はこの時点で立命館大学に推薦で入学することが決まっていました。すぐに私は彼の目の前で、携帯電話で立命館大学の監督に電話をしました。「すいません。西野の話は無かったことにしてください。ちょっと私は許せません」ということで断りの電話を入れたのです。彼は本当に泣きじゃくったのですけれども、そのぐらい本気でこちらも接していました。もちろん、そこで本気で断ろうということは思っていなくて、次の日に立命館大学の監督さんの所に行って、申し訳ない、こうこうこういう事情で言ってしまいましたということをお話ししました。 そうこうしているうちに夏の大会が1週間前に近づいてきました。次の日に3年生、2年生、1年生全員を集めてミーティングをし、「このキャプテンをどうしよう。俺はこの大会から外そうと思っている」という話をしたのです。「後は、お前たちに任す」ということで、選手間で話をさせました。戻ってきた答えが、「今まで西野がキャプテンとして頑張ってやってくれた。西野が大変な部分は僕たちがカバーをします」と。「じゃあ、分かった。お前らに任そう」ということで夏の大会はその子を入れて4番でずっと使ったわけなのです。 そういう状況で彼が夏の大会を迎えまして、打率が決勝まで1割なかったのです。0割9分ぐらいでした。この西野の前を打っている3番バッターの西村という子が、高校通算50本の本塁打を打っている子でして、本当にそこそこ名前も売れた子だったのですけれども、この子が夏の大会では敬遠されまして、西野にチャンスが巡ってくる。西野はことごとく打てなかったのです。この夏の決勝を迎えた時に京都西とやったのですけれども、初回からランナーが1人出まして、3番の西村は定石通り敬遠されました。そこで西野です。
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| <甲子園出場の裏事情> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| それでは、次の夏の甲子園でのハプニング、ハプニングではないのですけれども、これは甲子園での裏事情といいますか、そういう話なのです。 最初の方に言いましたが、この西野という子は非常にクジ運が悪くて、じゃんけんも弱い子でして、この夏の甲子園大会で一番の激戦区を引いてきた。おまけに第1試合です。第1試合が2回ありました。甲子園の夏の第1試合です。起床が3時半なのです。甲子園に6時までには必ず入らなくてはいけないのです。そういう状況でゲームをしますと、抽選が決まった時点で朝早起きの練習をするのです。そして、それに合わせて午前中に練習するのです。ところが、雨で順延になってしまいますと、日程がころころころと変わっていきます。第1試合の予定が第4試合に変わったり、第3試合に変わったりというケースが非常に多いのです。ですから、本当に抽選が決まった時にグランドの手配だとか、あと天気予報、これを全て検討して、それによって宿舎での過ごし方を変えるわけなのです。 高校野球というのは、高校野球連盟がありまして、春の選抜、夏の大会も、そこからいろいろな指示があるわけです。抽選会の二日前には必ず宿舎に入る。また宿舎も、各都道府県で決まっています。うちは東三国にあるビジネスホテルで、京都府の宿舎はそこに決まっております。困った事に、そこはビジネスホテルで一人一部屋、大きい風呂も無い、ユニットバスです。非常に長い期間おりますと疲れてしまうという場所なのです。もちろん食事もホテル食なのです。2回戦、3回戦と出ると、こちらの方からも食事にいろんな注文を出しまして、ある程度改善していただけるのですけれども、やはり生徒はあきてしまいます。近くに風呂屋があれば3日に1回全員で風呂屋に行かせるとか、工夫をするわけです。 春の1回戦も起床時間が3時半、本当に真っ暗です。そこで起きて散歩に出かける。 しかし、この年の夏は2転3転して、雨が多くて第1試合の予定がまた第4試合とかわったわけです。今度、第4試合になれば夕方にあわせないといけない。昨日まで「早く起きろ」と言ったのが、「早く起きなくていいよ」という事になる。夜のナイターの試合に合わせますから、その時間に練習をするわけです。ですから、起こしてから、「おい、今日は絶対に昼寝をするなよ」という。でも、一人一部屋なので昼寝をしてしまうのです。天気予報とにらめっこをしながら右往左往するのですけれども、それが2転3転して、第1試合が第4試合になったり、第4試合が第1試合になったり、結局、第1試合、第1試合、次が第4試合、第3試合となりまして、生徒のコンディションを調整するのが非常に難しかった。 食事の部分も最初の2日、3日はバイキングで、子どもがいつもの食事と違うので楽しく食事をするのですけれども、それが飽きてしまう。それでは、こちらはどのように工夫すればいいのかとなるわけです。でも、よそからの差し入れは絶対に駄目なのです。これは高校野球連盟で規制しています。これは食中毒云々になります。ですから、ホテルが指定する食事以外は取っては駄目なのです。そういう面でフルーツを多めにしたりとか、朝はたまにサンドイッチにしていただいたりとか、工夫をしています。これが一つの甲子園でのハプニングというか、裏事情です。 |
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| <近年の生徒と保護者の気質> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| それでは、最後に「近年の生徒・保護者の気質」についてお話します。今は昔と違いまして、躾とか教育の部分に関しましては、僕らの時代は先輩がしてくれていました。先輩が怖いですから、先輩の目を見ながら先輩に怒られないように要領よく過ごすというのが1年生・2年生のパターンだったのですけれども、僕らも毎日毎日正座をさせられて、先輩に毎日毎日殴られてというのが当たり前で育ってきたのです。今はそういう時代ではございません。私もちょうど7年前に上下関係を廃止しました。というのは、いじめだとか、言葉の暴力だとか、そういうものに対して、親の方がだいぶ過敏になりまして、クレームだとか、そういう話が出てきますので、もう上下関係はやめておこうと。ただ、幹となる部分です。これは絶対必要だという部分は譲りません。ただ、後輩の指導に関しましては、後輩を怒るなと、絶対怒るなといいます。その分、そういう仕事が全部我々に回ってきまして、今も実際にそうなのですけれども、野球の技術だとか、野球という部分を教えるより、モラルだとか躾の部分を指導する時間が、非常に多いのです。 毎年毎年、我々も年を取ったせいか、子どもが感覚的に幼稚になってきていると思います。というのは、干渉しすぎる親、特に母親なのですが、それと干渉されすぎる子どもが増えています。 簡単に言いますと、自己表現ができなくて、自分の頭で判断して自分の手足を動かすという作業ができる子が毎年少なくなってきたと思います。もちろん理想は自分の目で見て自分で考えて、自分の手足を動かすという。野球はこれが必要なのですが、それができなくなってきていると思います。 最終的に生徒を指導するのは、約2年間なので時間がないのです。ですから、自分で考えて、自分で行動するのを待っていると、本当に時間がありませんので、こちらも教えすぎますし、かまいすぎます。これは私自身も駄目なことだと、彼らの成長の妨げになっているというのは分かるのですけれども、やはり2年間、2年半で仕上げなければいけないので、その辺りは我々も干渉しすぎるかなと反省しているわけなのです。 なぜ、こういう子どもが増えたのか。私もあまり勉強もしないのですけれども、そういう部分もなんとか勉強をして、彼らに伝えて、彼らを成長させなければいけないと思い、先生方にもお話しを聞いたりして、自分なりに考えたこと、勉強をしたことを彼らに伝えているわけなのです。 結論から申しますと、私が思うには幼児期の教育です。それが非常に大きく影響していると思います。子どもが小さい時から親が干渉しすぎるということだと思います。特にお母さん方を集めて、いろんな話をします。「3年間、私に預けてください」と言います。 過干渉と過保護という二つの言葉がありますが、私が思うには、過干渉というのは、子どもが自分で気付いて考えるという習慣をつけるのが大切なのですが、その大切さを忘れて、子どもが考える前に親が考えて行動をする。これは親が子どもにも介入してしまうということなのです。親が自分のペースを子どもに押し付ける。親の要求を何が何でも子どもに託すという、子どもに聞かせるという。これは親が優先ということだと僕は思います。これが過干渉です。 過保護というのは、子どもの要求を理解した上で、親がそれを受け入れてやるという。これは子どもが優先ということになるのです。ただ、高校生の子どもですから途中までは親、あるいは周りの方の導きというのが大切だと思うのです。例えば、1日の生活の中で「早く起きなさい」と自分が起きずに親が起こす、起きてきたところに朝食が用意してある、それを食べる。親は時間を見て、「ぼちぼち行きなさいよ」「ああ、時間がない」「では、お母さんが車で駅まで送っていきましょう」と、そのまま送られてくる。駅までならばいいですけれども、学校まで送ってくる親がたくさんおりました。当然、車の中で子どもは寝ます。学校の門の前で降ります。そのまま、ぼうっと学校へ入ってきます。そのままぼうっと授業に行きます。授業へ出ているだけです。そのままぼうっとまた練習。そういう生活を繰り返してきて、当初、本当にこういう親御さんが多かったです。ですから、私は朝、校門の前に何日間か立って、送ってくる親御さんを叱りつけました。 余談なのですが、すごく裕福な子がおりまして、親御さんがベンツで送ってくるわけです。みんなの前で怒りまして、特にその親御さんがきている時に、その子どもを正座させて怒りました。「毎日毎日ベンツで送ってもらいやがって。お前が悪いのだ」と全部言います。これは親御さんが怒りますけれども、やはり子どものためです。 その親御さんはちょっとユニークな親でして、仕事をされていましたので1週間後にまた送ってきたのですが、ベンツではなく軽トラでした。「何を考えているのですか、お父さん。」と、「監督、軽トラならいいだろ・・」と、そういうお父さんがおられたのです。 ですから私は親御さんに言うのですけれども、本当に干渉されて育てていくよりは、まだ過保護に育てていかれる方がいいと。子どもの要求を聞いてやってください。その上で良いか悪いかというのは親御さんが判断する。 例えば、16歳になったら免許を取れますが、「お母さん、バイクを買ってくれ」とおそらく言うと思うのです。「バイクを買って上げるけれども、バイクに乗るには交通ルールがあるのだよ。そのルールを守りなさい。この時間には乗ったら、いけないよ」という指導をやってください。付かず離れず、見守ってやってほしい、全権をお母さんが握るのではなく、まず子どもに握らせてやってくださいと、そのような話を親御さんに必ずお話しています。 |
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| <野球部員を指導する教育の原点とは> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| そういうふうに、毎年毎年、指導をするわけなのですけれども、今の平安高校野球部員の現状といいますのは、野球というのは特異的な、特質的な組織でして、昔から古い体質がずっとまだあります。彼らを見ていると頭も丸坊主にもしますし、毎日毎日同じことを繰り返して、毎日毎日怒られて、汗を流して、涙を流して、クラブ活動をする。これは本当に今の世の中からすれば、僕は非常に貴重な子どもたちだと思います。だからこそ、僕は大事にしたい。だから、常に彼らには言うのです、「この経験を一生大事にして、これからお前らが世の中に出たら先頭を、走るようにしろ」と指導をいたします。毎年毎年、子どもの性格も違いますし、もちろんそれに対してのチームの方針も違います。ですから、指導内容も毎年毎年変えております。 その中で、私の信念というのは、ずっと同じでして、それは子どもたちに対する愛情だと思います。結局、その辺を彼らにどう伝えていくか、それが勝負だと思います。愛情さえしっかりしておれば、まだまだ時代によってやり方だとか指導の仕方は変えてもいいと思います。1年、2年と経ってくると、ある時期に彼らとは、「こいつ俺の気持ちが分かってくれたな」、「この子の気持ちも俺は分かるようになったな」という心のつながりが必ず持てるようになります。そうすると、こちらはしめたものです。それが全員持てればいいのですけれども、やはり全員持てるというのはなかなかえらい作業なのです。しかし、僕の信念としては40名おればその40名、60名おれば60名、その子が最後に卒業するまで必ず自分との絆を築ければいい。おそらく、そこに教育の原点があると思いますし、それが無ければ教育はできないと思います。 非常に偉そうなことを申しますけれども、毎年毎年、年も離れていきますし、自分の息子世代・娘世代になってきています。当初私が就任した時は自分の後輩だと思って指導をしたわけなのですが、この5〜6年前からは自分の息子という想いで指導をしております。ですから彼らが卒業していく時には本当に寂しい思いをしますし、彼らが卒業してからは、私は彼らの1ファンになりまして、彼らの追っかけをしております。彼らが大好きです。それが私の指導方針の基本としております。 |
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| 非常にとりとめのない話になりましたが、この辺で終わらせていただきます。 どうもご清聴ありがとうございました。 |