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「DNA解析による個人識別と史実」
〜ロマノフ・ニコライ二世一家殺害事件を中心として〜

神戸大学医学部 名誉教授 山口 延男 先生
(神戸常盤短期大学紀要 第22号 2000)より

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 SUMMARY

    
 In 1991,nine skeletons were found in a shallow grave near Ekaterinburg and tentatively identified by Russian specialists of forensic medicine as the remains of Tsar Nikolaus U,Tsarina Alexsandora and three daughters of their five children and their four attendants.
The remains of Prince Alexsei and one princess were not discovered.
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 The investigation committee of Russian Federation was organized to verify the authencity of the remains using DNA based techniques, including DNA based sex testing and analysis of short tandem repeat(STR) and mitochondrial DNA, Finally, in 1998, the five remains were approved to be of the Romanov Family.
3

 Anna Anderson, claimed as Princess Anastasia, oniy one survivor of the massacre, was proved non-related with the Romanov by DNA analysis. Anastasia`s skull was also confirmed among the remains above.
4



 Prince Alexsei inherited a defected AHGgene on X-chromosome via Tsarina, grand daughter of Queen Victoria of United Kingdom, as the propositus. Rasputin, a priest, gained the confidence of both Tsar and Tsarina, as a good healer of Aiexsei`s bleeding. He had come to interfere in the national affairs, leading to his assasination and to the fall of the Romanov Dynasty.
5  DNA might be a wirepuller of human being and history.

 

hはじめに

 ロシア皇帝ロマノフ・ニコライ二世は一家7人と共にロシア革命(1917年2月)の初期に逮捕監禁され、1918年7月16日以降ウラル山麓で消息を絶つ。1991年ソ連邦の崩壊と共にウラル山麓のエカテリンブルグ近郊から一家のものと思われる9体の遺骸が発見される。ロシア政府は解剖学的鑑定と平行して英国内務省犯罪学研究所および米国国防省軍事医学研究所と共同研究を行いDNA解析によって、遺骸の鑑識を行った。
 現在個人の生物的特徴や遺伝情報のすべてはDNAの特殊な塩基配列によって書き込まれていると考えられており、遺伝病のほか、多くの疾病の背景因子やがんの原因としてのDNAの異常が検索されている。個人識別や親子鑑定、さらに古生物、ミイラ、古人骨のDNAによる分析も行われている。DNAは形態を規定するだけでなく、生体機能やそのネットワークの形成を通じて人間の個性、行動、思考ひいては社会事象や文化にも影響する本質的な影武者とする考え方もある。
 本論文では先ずDNA解析の基礎について解説した後、ニコライ二世皇帝一家殺害事件のDNAによる鑑識結果を要約し、その背景にある歴史的事実と人間社会の現実や夢とDNAとの係わり合いについて考えて見たい。
1.遺伝子診断と個人識別
1) 遺伝子とDNA
 ヒト遺伝子は大部分細胞の核に含まれ少量はミトコンドリアにも存在する。遺伝子はDNA(Deoxyribonucleic Acid)で構成され、DNAはアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、またはチミン(T)のいずれかの塩基とデオキシ・リボーズがリン酸1分子と結合したヌクレオチドの連鎖からできている。遺伝子はA、G、C、Tのいずれかの塩基(ベース)もつDNAが一定数配列(1キロベース〜1メガベース)して1つの意味のある暗号を形成したものである。ヒト遺伝子は5万ないし10万個あると言われている。ヒト細胞には約30億塩基対のDNAがあり、DNA鎖の長さは約1mである。核DNAは22対の常染色体と1対の性染色体、合計46本の染色体として観察される。各対の1本はそれぞれ両親からきたものである。したがって遺伝子は染色体を構成するDNA鎖の中に分散して埋め込まれていることになる。実際の遺伝子DNAは数〜数十個の塩基配列部分(エキソン:exon)に分かれて染色体中に分散して存在し、細胞核を出たあと連結され固有の遺伝子となり特定の蛋白質−細胞構造を作り機能発揮に働く。染色体中には遺伝子と関係のないDNA配列の部分、すなわちイントロンと呼ばれる部分がかなりあり、いわばイントロンの間に遺伝子を構成するエキソンが挿入されている形になっている。
2) DNA解析による個人識別
 イントロン部分には同一の塩基配列の繰り返し構造があり、DNA鎖全体の約30%に及ぶという1)。繰り返し構造には縦列反復配列(10%位)と散在性(非縦列)反復配列(20%位)とがある。縦列配列のう塩基配列数が7〜40の繰り返しのものをVNTR(Variable Number of Tandem Repeat:又はミニサテライト)、それ以下の数塩基配列の繰り返し配列のものをSTR(Short Tandem Repeat:又はミクロサテライト)、反対に数千塩基の大きな反復構造をとるものをサテライトと呼ぶ。
 これらの塩基配列の繰り返し数には大きな個人差−多型性−があり、それらは父母由来の相同染色体を通じて親から子へ遺伝する。とくに塩基配列の短いもの−VNTRやSTR−は染色体中の繰り返し領域の長さが短いことから個人識別や親子鑑別に有用とされる。
 例えばVNTR法で、塩基配列のうちAACCTTCGが1回ある場合と、2,3, ・・・回繰返してある場合では、制限酵素(特定の塩基配列の箇所だけを切断する酵素)で染色体を切断した場合、切断されるDNAの長さが異なるので電気遊動法で易動度の異なるパターンとして検出される。図1は中村氏の著書から引用2)したDNAの切断図を示す(検出には切断片の特異塩基配列だけと結合できる相補性のある標識DNAプローブを用いる)。血縁関係のない30人のバンド位置はすべて異なっており、この場合は30人が完全に鑑別出来ていることを示す。

3) DNA解析による個人識別の確率
 多型性の著しい8種類のVNTR部位について白人200人のDNA分析を行い個人識別の確率を検定した報告2)がある(表1)。1つのDNAプローブ(例えばpYN24)を用いた場合、任意の2人を無作為に選んだ時、複数位置のバンドが完全に一致する確率は3.8×10−2であるが、異なった8種類の部位について、異なったDNAプローブを使用してすべてのパターンが一致する確率は5.85×10−15である(兄弟姉妹間では1.2×10−4)。すなわち、1つのVNTRを解析した場合、血縁関係のない2人が同一人と判定される割合は100人に4人で、この限りでは本法は有用ではない。しかし、8種類のVNTR部位で同一パターンが得られるのは200兆人に1人ということになる。地球上の人口を焼く60億としてしても事実上同一パターンを示す他人は存在しないことを意味する。即ち解析する多型性部位を増すと本法の個人識別の精度は高くなる。STR法ではより短い塩基配列の繰り返し部分を検索するのでミイラや古人骨などDNAの断片化の予想される場合に特に有用とされる。
 試料量が少ない場合にはPCP(polymerase chain reaction)法でDNA量を増量し、また自動解析法の開発も行われていて個人識別の有力な手段となっている。現在のPCR法でDNA2−5ng(血液量0.1μl程度で、MCT118またはApoB3、HVRLD2S6などの染色体座位の多型の検出が可能3)とされる。
 
4) 親子鑑別
 VNTRやSTRは親子鑑別にも利用できる。VNTRやSTR領域における塩基の繰返し構造は普通の対立遺伝子と同様な様式で遺伝し、子のDNAは父または母に固有の繰返し構造をそれぞれ1個ずつ計2箇持っていいる。同一のDNAプローブで親子のDNAを解析すると、必ず母または父と同位置に遺伝子断片の一つを検出することが出来る。もし合致しないときは合致しない方の親との間には生物学的な親子関係はないことになる。
5) 性鑑別
 アメロゲニン(ameleogenin)遺伝子1)はXおよびY染色体に共通領域であるが、その部分に性差がありX染色体ではY染色体より6塩基だけ少ない。6塩基欠失に基くDNA鎖の長さを検出しうるようなPCR解析系を設定すれば男性では218塩基と212塩基の2本のバンドが、女性であれば212塩基に相当する1本のバンドが検出される。
6) ミトコンドリアDNAの解析
 ヒトDNAの少量はミトコンドリア内に環状ミトコンドリアとして存在する。ミトコンドリアDNA(mtDNA)は16569の塩基配列からなり、全塩基配列はアンダーソンによって決定されていて、大部分は構造遺伝子としてエネルギー産生酵素系を形成している。mtDNAには重要な特徴がある。@核DNAは父母由来の一対のDNA1コピーしか持たないが、ミトコンドリアは一細胞当たり約1000個あり、ミトコンドリア1個当たり2〜3コピーのDNAを持つから細胞全体で約3000コピーのDNAを持つことになり分析精度が高い。A受精時に精子のミトコンドリアは分離され、子には卵細胞のミトコンドリアだけが伝えられる。したがってミトコンドリア遺伝子は母性遺伝の指標となる、BmtDNAの構造遺伝子部分にはイントロンがないから、核DNAよりも変異、すなわち塩基置換が起こりやすく、イントロンの集中しているD−ループ(非コード部分)に点突然変異の蓄積による高度の多型(塩基配列の)があり、これが個人識別に有用である。ミトコンドリアでは全塩基配列が決定されているので、DNA配列自動分析装置(DNAシークエンサー)による塩基配列の決定法を併用すれば精度を更に上げることが出来る。またPCR法を併用すれば試料量は少量ですみ、毛髪、古代ミイラ、古人骨などの分析に有利とされている。
2.ロマノフ二世一家の遺骸の発見とその調査結果
1) ロマノフ二世一家と思われる遺骸の発見
 ロシアのロマノフ王朝最終の皇帝ニコライ二世と家族、すなわちアレキサンドラ皇后、アレキセイ皇太子と四皇女すなわち第一皇女オルガ、第二皇女タチアナ、第三皇女マリアおよび第四皇女アナスタシアの7人は、皇帝の退位(1917年)と共にソ連政府に拘束され1918年7月16日以降消息不明となる4)。図2はこの少し前の一家の家族写真である。ソ連崩壊の1991年に、2人の素人歴史探検家のゲリイ・リヤボフ(地質学者)とアレキサンダー・アヴドーニン(映画脚本家)が一家および従者の投込み墓と思われるものを、ウラル山麓、スヴェドブルグ州のエカテリンブルグ近郊に発見したと発表する。その情報に基いて1991年からロシア政府の法医学調査団による公式調査が開始された。共通墓は深さ1m以内の穴で、中から著しく損傷された9人の遺骸が発掘された。
 遺骸には生前に加えられた暴力と虐待の跡があり、頭蓋骨への銃創及び銃剣創が認められ、顔面骨は破壊されており、古典的な顔面識別法を適用することは困難であった。同調査団によって、コンピューター支援による顔面再構築、歯科学、年齢推定および性などについての広範囲な調査が行われた。装身具に金、白金などがあり、貴族出身者のものと推定された。1992年ロシア同調査団は共通墓の遺骸中には皇帝、皇后のほか5人の子供中の3名の遺骸が含まれているとの推定を発表した。更に子供中2人すなわち皇太子アレキセイおよび皇女1人の遺骸は含まれていなかったと結論した。

図2 ニコライ2世家族

2) 遺骸のDNA鑑識
 このような状況で、1992年にロシア政府の法医学調査団は、英国法医学中央研究支援施設及びケンブリッジ大学生物学的人類学及びロシア科学アカデミーのエンゲルハルト分子生物学研究所に対して、DNA解析法によって遺骸がロマノフ家のものである事を立証することを求めた。つぎにその調査結果を要約する。
  (a)核遺伝子の解析成績
  @性鑑別:遺骸の骨からDNAを抽出し、性染色体上のアメロゲニン遺伝子が解析された。その結果9遺骸は解剖学調査で推定されていた通り4男性と5女性であることが確認された4)
  ASTR法の結果:骨から抽出したDNAについて、4塩基対の繰返しの解析(STR法)をDNAの5部位(HUMVW/31,HUMTH01,HUMF13A1,HUMFES/FPS及びHUMACTBP2)について行った4)。各部位のPCR法に用いられた鋳型DNA量は20〜40pgで2倍体ゲノムの3〜7コピーを含む。分析の結果を図3にまとめた。DNA断片のパターンを比較すると、9遺骸のうちX軸上のNo.3〜7は同一家族のもので、No.3および7を両親ものとすると、No.4,5,6はそれらの子と判定しうる(どれかの部位で、No.3または7のバンドのいずれか1個が認められるから)。No.1,2,8,9はNO.3〜7とは血縁関係はないものと判断される。この成績と性鑑別の成績を重ね合わせて、NO.3(ニコライ皇帝)、NO.7(アレクサンドラ皇后)、NO.4,5,6は3人の皇女と判定される。同時に1皇女と皇太子アレキセイと思われるDNAは検出されなかった。
 この2人が発見されなかった理由として、遺体が焼却されたか、別に埋葬されたか、それとも何等かの理由で一家皆殺しから抜け出すことが出来たかのいずれかということになる。なお図3のNO.2は皇室侍医ボトキン、No.1,8,9はいずれも別々の従者と同定されている。
   
  (b)mtDNA解析の成績
   遺骨からDNAを抽出し、mtDNAで塩基置換の起こりやすい、D−ループのHVR(hypervariabie region)−1およびHVR−2をPCR法で増幅し、自動分析機で塩基配列が測定された4)。HV−1は塩基番号16020から16400まで、HV−2は48から408までが解析された。表2にmtDNAの分析結果を示した。9遺体で塩基置換の異なる6パターンが観察された。アレクサンドラ皇后と3皇女は同一パターンを示し、皇后の姪の子に当たる英国エディンバラ公フィリップ殿下(現エリザベス女王の夫)とも同一のパターンで、アレクサンドラ皇后が英国のヴィクトリア女王の孫娘である事と符合している(フィリップ殿下のmtDNAは彼の血液から分析された)。ミトコンドリアの母系遺伝が明瞭に示されている(図4)。一方ニコライ二世の遺骨の分析では、母方の血縁者(皇帝の母方の祖母−デンマーク皇妃ルイーズの子孫フィーフェ公およびシエレメテフ・スフィリ伯爵夫人の血液との間でHVR−1の16169位置の塩基を除いて同一のパターンを示した(表2)。16169位置の塩基は皇帝の場合はCおよびTの両方が混在するヘテロプラスミー(Heteroplasmy)であったが、母系血縁者2名ではTのみのホモプラスミー(Homoplasmy)であった。すなわちこの場合にはmtDNAで見て1箇所だけが合致せず、母系遺伝の経験則上完全には同一母系の属するとは断定できないことが問題となり、ニコライ二世の遺骸と推定はされるものの、疑念が残り、結局、論文の結論は「DNA分析結果は遺骸はロマノフ一家のものであるとの仮説を支持する」との記載4)にとどまった(1994年)。ロシア政府もこれを受けてロシア皇帝の運命について公式発表を延期した。
 更にロシア政府の要請を受けて先の調査団に加わっていたイワノフら5)は、米国国防省DNA鑑定研究所、同病理学研究所のスタッフと共同してmtDNAの不一致問題について研究を進めた。ニコライ二世の弟ゲオルギー・ロマノフ大公はすでに1899年に病死していてセントペーター・ポール大聖堂に埋葬されていたが、セントペテルブルグ寺院に改葬される際に、政府及びロシア正教会の許可を得て遺体より大腿部及び脛骨の一部を切除し、そのmtDNAとニコライ二世と推定されている遺骸のmtDNAの塩基対配列が平行して分析された。同時に、ニコライ二世の母系の血縁者で現存のキセニア・シュレメテフ・スフィーリ伯爵夫人の血液のmtDNAも分析された(図5)。同伯爵夫人のmtDNAは従前の分析と同じく遺伝子部分の6箇所に塩基置換、1箇所に塩基挿入があり、これらは皇帝及びゲオルギー大公と同じ変異であった。問題の16169位置の塩基は同伯爵夫人はすべてTであったが、皇帝及びゲオルギー大公はいずれもC及びTの混合型で、皇帝の場合はTが62%でCが38%、ゲオルギー大公の場合はTが28%でCが72%、2人とも変異型のmtDNAが共存する、所謂へテロプラスミー(heteroplasmy)であることが明らかとなった4)。ヘテロプラスミーはニコライ二世の母親から2人の息子ニコライ二世とゲオルギーにミトコンドリアの分配の際、変異mtDNAが不均等に分配されたものと結論された。図6はニコライ2世の母性系列の結論を示す。この研究から、
@明らかに皇弟のゲオルギーおよび皇帝の遺骸と思われるものは、共に同様なheteroplasmyがあり、遺骸はニコライ二世のもので間違いないことが明らかになった。
AミトコンドリアDNAの遺伝について、mtDNAは明らかに核DNAより変異が起こり易いにもかかわらず、bottleneck機序6)(卵細胞へのミトコンドリアの分配の際に移行する数が絞りこまれ、変異mtDNAの混入を制御する働き)によって何世代かのうちに変異型mtDNAを持つ個体が隔離されて、homoplasmyに復帰するという現象があることも明らかになった。
 更に統計的な試算4)によっても皇帝と思われる遺骸とセルゲイ大公の遺骸のmtDNAのheteroplasmyが同時に見られる事実が、兄弟関係以外で偶然見られるとする確率は2.4×10−4と著しく少なく、弱に兄弟である可能性比(likelihood ratio)は3.8×10と高い。更にアレクサンドラ皇后とフィリップ殿下のmtDNAの成績を含め、全体として発見された5遺骸がロマノフ一族のものとする可能性比は1.3×10となり、発見された5遺骸がロマノフ一家のものであるとすることを否定する科学的根拠はないことが最終的に結論5)7)されたのである。
  (c)法医学的、分子遺伝学的調査の結論
   エカテリンブルグで発見された9つの遺骸については、1992年および1994年の調査において骨格、頭蓋骨等についての人類学的、解剖学的、歯科学的調査や頭蓋骨や顔面骨のコンピュータ解析や合成写真、ロマノフ家の生前の写真との比較、衣装や履物のサイズ、さらに遺骸の損傷状態やその原因の推定などが行われ、更にDNA鑑定によってニコライ二世一家の遺骸であることが確実に立証されたと考えられる。すなわち遺骸としてはニコライ皇帝(50歳)及びアレクサンドラ皇帝(46歳)と共に3人の皇女のものがあった。4人の皇女間の鑑別については年齢、身長、頭蓋骨及び顔面骨断片についてコンピューター解析や写真分析、歯学的分析による比較で第一皇女オルガ(21歳)、第二皇女タチアナ(20歳)、第四皇女アナスタシア(17歳)と決定された。とくにアナスタシアについては、埋葬地で発見された15〜21歳に相当する臼歯の大きさや相似などの特徴がアナスタシアと思われる頭蓋骨に適合することから死亡していると断定された8)。第三皇女マリア(19歳)については彼女の生前の写真の特徴と一致する頭蓋骨が発見されないという点から、遺骸はないということになった8)。なお骨調査、DNAによる性鑑別を含めて皇太子アレキセイの遺骸も発見されなかった。したがって皇太子アレキセイと第三皇女マリアの2つの遺骸は発見されなかったということになる。(なおニコライ二世は1891年来日したとき大津事件9)に遭遇し、受傷時の止血に使用されたハンカチが大津市に保存されている。この血痕もDNA鑑定に使用されたが、試料量が少なく、血液型判別しか行えなかったという)。残る四遺骸はDNA鑑別でロマノフ家とは関係なく、法医学的諸資料の判断を加えて侍医のボトキン及び従者4人と特定された4)8)
 被害者の主な死因4)8)は銃撃創とみなされたが、遺骸には銃創のほかに、銃剣創、頭蓋骨や顔面骨の破壊、硫酸による腐食、油による焼却跡などが見られ、成因として生前の外傷のほか、遺体識別の撹乱のための破壊、遺体の隠蔽、移送、埋葬等による損傷も指摘されている。
3.歴史と現実
1) ロマノフ王朝の滅亡とエカテリンブルグの惨劇
 ロマノフ王朝は1613年ミハイル公により樹立された。関ケ原の合戦(1600年)頃にあたる。18代の皇帝の治世を経て1917年ニコライ二世の退位をもって300年の歴史を終える9)10)。専制君主制から立憲君主制への転換を促す歴史的必然性がある中で、19世紀終わり専制主義からの脱却ができない間に、ロシア革命が進行し、いわば朽木のように倒壊したと言われる。直接の原因は第一次世界大戦でドイツとの戦いであった。続く敗戦と経済の疲労の内で革命はエスカレートし1917年2月革命で王政は崩壊し臨時政府が樹立される。退位したニコライ二世はやがて家族6人と共に逮捕され、若干の従者ともども幽閉される。
 ロシア臨時政府の権力はやがて右から中道やがて左へ移動し、ドイツから帰国したレーニンを中心としたソビエト勢力が支配し、10月革命でソビエト政権が樹立される。この間内戦の混乱のなか皇帝一家は転々と移送され、シベリアの手前ウラル山麓のエカテリンブルグに達する11)。同地の商人イパチェフの家に幽閉されるが、1918年7月18日を境として一家の消息は途絶える。図7はニコライ二世一家が逮捕後に転送された経路を植田氏の著書から引用したものである。当時皇帝一家の殺害の噂やシベリア逃亡説が流れた。だが実際はエカテリンブルグで処刑と言う名の虐殺が行われていたのである。その調査結果は白ロシア軍の情報機関将校ソコロフによってソコロフ文書(7巻)としてまとめられていた。原本は長く行方不明であったが、1990年に突如サザンビーのオークションに出され、リヒテンシュタイン国王ハンス・アダムス二世を経てロシア政府の入手する所となった。
 その中には皇帝銃殺に直接関わった者の尋問調書や殺害報告の電文などがあるという。ソビエト体制の崩壊後、秘密警察などの政府機関に保管されていた革命軍の調書も公表され、ソコロフ文書を超える残虐な事実が明らかになった。銃殺を指揮した隊長ユーロフスキーは皇帝一家及び従者に写真を撮ると言って、イパチェフ館の地下室に集めて突如銃殺を宣言し銃撃を加えた。一斉射撃の後、死亡しなかった者は銃剣で刺殺あるいはピストルで射殺した。死体からはダイヤ等の宝石、金銀の装飾品を奪い衣類を剥いだ。遺体はトラックの荷台に乗せ、皇帝一家殺害の事実と遺体の所在を秘匿するという至上命令に従い、エカテリンブルグの北16kmのコプチヤキ村近郊に運ぶ。一旦は金採掘の廃坑の中に遺体を投げ込み、遺体が皇帝一家の者である事を判らなくするため、手榴弾も投げ込まれた。更に翌日、本格的な隠蔽作業をするために遺体を拾い集め再度トラックに積み込み移送したのが、途中トラックが泥道にはまって立ち往生したので、当初の計画を変更して道の真ん中に深さ約2mの穴を掘って死体を埋め、遺体の鑑別を不明にする目的で遺体に硫酸がかけられ、その上に土をかけ、鉄道用の枕木を敷いてその上をトラックで往復させて道路にし、痕跡を消した。この間に皇太子と皇后の2人の遺体を焚火で焼いて、その場に埋めたという。皇后と彼等が思っていたのは実は皇女マリアのものだったらしい。翌日、共産党報道部は公式にニコライ・ロマノフの銃殺執行を発表したが、同時に皇后と皇太子は安全な場所へ護送したとも伝えた11)。家族全員の処刑については虚偽の発表を行ったわけである。この裏にはアレクサンドラ皇后がドイツ皇室の出身で、英国王室のヴィクトリア女王の孫娘に当たることから外交的に生存への配慮を要したことや、婦人や子供まで皆殺しにした事が冷酷、残忍、非人道的なボリシェビキというイメージを広め世界革命の実現という目的にマイナスになるとの考えもあった。ソビエト政権崩壊後には一家抹殺へのレーニンの関与を示す資料も明らかになったといわれる11)

2) 遺骸発見の経緯―ソ連体制の裏側
 ソビエト体制下ではニコライ二世一家の処刑や埋葬地についての話題や好奇心は長くタブーであった。このような状況下でエカテリンブルグ在住の地質学者アレクサンドル・アヴドーニンはウラル郷土史研究協会会員として、ウラル地方での皇帝一家に関する事件に関心を持った11)12)。彼は親友の地質学者ミハイル・カチューロフと共に地質調査の口実の下に、1976年より3年間、密かに近郊のコプチヤキ村の野外調査を行っていた。この頃皇帝一家の悲劇に関心を持っているゲリー・リヤボフと知り合う。彼は職業上レーニン図書館の革命初期の秘密文献の閲覧や銃殺隊長ユーロスキーのメモを入手しうる地位にあり、脚本家としての興味から、アブドーニン等の遺体発掘作業に協力し、1979年に埋葬場所を特定する。遺骸はコプチヤキ村の道路直下の枕木の下に埋められていた。2つの頭蓋事を持ち出し、モスクワでの専門家の鑑定を依頼したが、危険を恐れ引き受ける人がなかったので、翌1980年密かに同じ場所に再埋葬した。3人はその後さらに10年間この問題について口を閉ざした。やがて1985年ゴルバチョフが共産党書記長となり、ペレストロイカの時代が始まる。4年後の1989年にリヤボフは「モスクワ・ニュース」に「ニコライ二世一家の遺骸が国家によって丁重に埋葬されるなら、その場所を教える用意がある」と公表した11)。しかし、その後の2年間ゴルバチョフ大統領すら関心を示さなかった。ソビエト体制が最終的に崩壊し、国会議事堂砲撃事件のあった1991年に、エリチン大統領の同意の下に、アヴドーニンらの情報に基づいて、初めて正式に皇帝一家の遺骸の発掘が行われることになった4)。政治的に共産党体制が完全に崩壊するまではアヴドーニンらの世紀の発見も公認されなかったわけである。そのような行為が国家的反逆行為として処罰されなかった事を奇跡と考えるべきかもしれない。
 ロシア政府はニコライ二世一家遺骸の調査委員会を組織5)8)し、遺骸の法医学的調査を1991年8月から1998年1月まで継続して行い最終報告書を作成し、発掘された遺骸が正式にニコライ二世一家のものと認定した8)
3) ニコライ二世一家の葬儀と革命の評価に対する世論
 エカテリンブルグの遺骸がニコライ二世一家であるとの公式承認の後、上記委員会は5人の遺骸を歴代皇帝一族の墓所であるサンクトペテロブルグのペトロパブロフスキー寺院に埋葬するよう提議8)11)した。その葬儀は国家的儀式として、処刑から満80年後の1998年7月16日に行われた。葬儀にはエリチン大統領夫妻や海外在住のロマノフ家親族約50人が列席した。図8は翌日の産経新聞に掲載されていた葬儀の写真である。同年7月17日付けの日本の大新聞にも大きく報道された。フランス革命におけるルイ16世やマリー・アントワネットの場合ですら処刑に先立って裁判が行われている。ニコライ二世の処刑には裁判もなく、婦女子及び子供も容赦なく殺害され、死後にも蛮行、略奪、死体隠匿などの野蛮行為があったことが露見した事件であった。このような残虐行為が立証されたことはソ連共産主義者にとって政治的に大きなダメージであることは否定できない。国家的な葬儀によって過去の蛮行を清算しようとしたエリチン大統領の立場を支持する人も多かったが、ソ連共産党系の人たちや超大国ソ連時代への回帰を夢見る人たちからは決して歓迎はされなかったようである。(図8 掲載せず)
4) ロマノフ家と血友病:ラスプーチンの登場と暗殺
 19世紀にはヨーロッパ王室及び親族の男子に先天性の出血性疾患(血友病)が多発するようになり、王室血友病(Royal hemophilia)と言われた。図9はその遺伝関係(V.A.マキュージックによる)を示したものである。血友病は伴性劣性遺伝をし、男子(性染色体型:XY)にだけ発症し、女性(同:XX)は一つのX染色上の異常遺伝子のキャリアー(運び屋)にはなるが血友病を発症することはない。遺伝地図で明らかなように王室血友病の異常遺伝子の発端者はイギリスのヴィクトリア女王である事が明らかになっている。19世紀の英国の繁栄と共にヴィクトリア女王は大いにヨーロッパの有力王室と勢力結婚を行った。ロマノフ王家のアレキサンドラ皇后はヴィクトリア女王の孫娘である、不運にも異常X染色体を持っていた。待望の皇太子アレキセイが血友病である事を知ったときの皇后の悲しみは大きく、またそれだけ愛情も深く注がれた。アレキセイの成長の過程で何度も危険的な出血症状に際会する。ラスプーチン10)はウラル山脈東側にあるトボリスク近郊の出身で、カリスマ性のある霊能者であったが、ロシア正教会から異端者と見なされていた。1905年皇太子アレキセイの大出血の時に呼び出されて、奇跡的に出血が止まった。この時以来ラスプーチンは皇帝と皇后の絶対的な信頼を得て、皇室家族との生活に深く関わるようになる。一方ラスプーチンは女性を中心とした宮廷サロンで信仰や心霊術を通じて人気を得るが、セックス・スキャンダルにも包まれる。皇帝家族との付き合いの中から遂には国事にも発言するようになる。このことが王族そして民衆の反感を呼び、1916年に暗殺される。その翌年にニコライ二世は退位する運命になる。ラスプーチンは皇后への手紙で言ったという、「もし私が王族によって殺されたなら、ロマノフ家の人は2年以上生き永らえることは出来ないだろう」と。エカテリンブルグの惨劇があったのは1918年のことである。
6) アナスタシア物語は終結したか

 エカテリンブルグの惨劇のあと、1921年にベルリンの1精神病院の患者が、充分な記憶が回復しないものの、自分は生き残ったアナスタシア・ロマノフだと主張する13)。皇女アナスタシアが青い目の利発で可憐な美少女、噂の惨劇の犠牲者、華麗な宮廷世界の貴人、ロマノフ家の生き残りであれば莫大な海外遺産の相続者、ソ連体制への批判、それに外交問題も絡んで、ヨーロッパ社会に興味津々の話題を提供し、肯定・否定のグループが出来る。亡命したロシア貴族の多くはアナスタシアの生存に否定だったが。彼女はその後結婚してアメリカ合衆国に移住し、ヴァージニア州のシャロットヴィルに定住しアナ・アンダーソンと名乗る。彼女は一生涯自分はアナスタシアだと主張し、周囲の人もそう信じる。やがて彼女は1984年に肺炎で死去する。その物語の前半はイングリッド・バーグマン主演の「追憶(アナスタシア)」として1955年に映画化14)され評判となった。彼女の死後なお真のアナスタシアかどうかが争われ、生前に腸癌の疑いで受けた生検ホルマリン標本についてDNA鑑定が1994年に行われた15)。結果は彼女のDNAはロマノフ家のものとは一致しなかった。1992年に発表されたロマノフ一家の報告では皇女1人の遺骸が発見されていなかったということでアナスタシアである可能性もあった。しかしDNA鑑定で話題の中心であったアンダーソン夫人がアナスタシアではないことが明らかになってしまったわけである。遺骸についての公式の最終報告(1998年)では、発見された第三皇女は骨相学的にアナスタシアであると断定8)され、半世紀以上に及んだアナスタシアの物語はDNA鑑定で決着したことになる。しかし1999年にビデオ・アニメとして再び「アナスタシア」がディズニー・プロダクションから発売され好評という16)。アナスタシアの夢はなぜ欧米、そして馴染みがそれほど深いとも思われない日本でも関心を呼ぶのだろうか。最後にニコライ・ロマノフの悲劇とロシア革命の歩みを20世紀の国内外の大事件(表3)を背景にして広く再考するのも有意義と考える。

表3 ニコライ2世とロシア世界史



おわりに
 20世紀の人間社会に大きなインパクトを与えた科学的大発見として、原子爆弾の原理とDNAの発見が挙げられる。前者は生命の絶滅に後者は生命の連続に関係する。特にDNAは人間の存在だけでなく、行為や思考そのものも規定しうるという命題に展開していく可能性もある。生命科学の中心ドグマとして生命の過去、現在、未来を繋ぐキーワードとなるかもしれない。
 今回の論文では主として現在のDNA解析−DNA学のほんの一部にしか過ぎないが−の適用の一つとしてロマノフ皇帝一家惨殺事件について、DNA鑑識の結果と社会的事件の対比を試みた。歴史における真実には計り知れぬ多面性と多様性があるように思える。
 引用させていただいた数多くの文献の著者に、とくにロマノフ問題について多くの引用をさせていただいた植田 樹氏に深謝する。

図9 王室血友病(遺伝図:V.A.マキュージック)

文  献
1. 石山c夫、吉井富夫:DNA鑑定入門−刑事事件への適用と親子鑑定−、20−23頁、91−101頁、南山堂、東京都、1998
2. 中村祐輔:遺伝子で診断する、164−170頁、PHP研究所、東京都、1996
3. 笠井賢太郎:法医学領域におけるDNA診断、76−79頁、(木南 凌、中村祐輔:「DNA診断学」のすすめ、Mebio Bookシリーズ、メディカルビュウ社、東京都、1991
4. Gill,P.,Ivanov,P.L., Kimpton,C.,Piercy,R.,Benson, N.,Tully,G.,Evett, I.,Hagelberg、E.,Sullivan,K.:Identification of theremains of the Romanov family by DNA analysis,Nat-Genet,6(2):130−135,1994
5. Ivanov,P.L..,Wadhams,M.J.,Roby,R.K.,Holland,M.M.,Weedn,V.&Parsons, T.J.:Mitochondrial DNA sequence heteroplasmy in the Grand Duke of Russia Georgij Romanov establishes the authenticity of the remains of Tsar Nichplas U, Natgent. 12(4):417-420.1996
6. Bergstrom,C.T.& Prichard,J.: Germline Bottlenecks and Evolutionary Maintenance of Mitochondorial Genomes,Genetics 149:2135-2146,1998
7. Debenham,P.G.:DNA typing, HEteroplasmy and the Tsar [news], Nature.380(6574):484-485,1966
8. Tomilin,W.:The results of the expert studies on the bone remains from the site of the burial of the family of the former Emperor Nicholas U.Sud-Med-Ekspert,41(5):50-54,1998
9. 樺山紘一、木村精二、窪添慶文、湯川 武:クロニクル「世界の歴史」、882,1206−1207頁、講談社、東京都、1999
10. Frederic Delouche:Histore de L`Europe,Hachette LivreParis, France,1997 木村尚三郎監修、花上克巳訳:ヨーロッパの歴史、第2版、324−327頁,383−397頁,東京書籍、東京都、1998
11. 植田 樹:最後のロシア皇帝、17−35頁、42−61頁、114−164頁、筑摩書房、東京都、1998
12. ビデオ、ロシア最後の皇帝―ロマノフ家の悲劇、ナショナル・ジオグラフィック、東和ビデオCo.Ltd.、東京都
13. James Blair Lovell:ANASTASIA-The Lost Princess,Ronald Goldfarb & Associates,1991 広瀬順弘訳、ジェイムズ.B.ラヴィル著:アナスタシア―消えた皇女、角川書店。東京都、1998
14. ビデオ、「追憶―アナスタシア」ファックスビデオジャパンCo.Ltd.、東京都、1984
15. Editorial:Anastasia and the tools of justice [editorial]: Nat-Genet.8(3):205-206,1994
16. ビデオ、「アナスタシア」、20世紀フォックス・エンターテイメント・ジャパンCo.Ltd.、東京都、1999